群青の都市

第2話

 夏休みにはいってからも、なにかと理由をつくってはターミナル駅で落ちあい、一緒に遊んだ。
旅行代理店の前を通りかかったとき、藍が「旅行行きたいね」とつぶやいた。わたしが「いいね、
行きたい」と軽い気持ちで答えると、彼女はわたしの手をとって、そのまま中に入っていった。
面食らうわたしをよそに、彼女は受付のお姉さんの前へ腰を下ろし、今から予約できる北海道旅行の
プランは、とかなんとか言い始めた。
「やだ、ちょっと待って。旅行なんて、そんな簡単に・・・」
「だいじょうぶだって。一泊ぐらいなら、親も説得できるでしょ。それにお金だったら、わたし
カードもってるし」
「は?カード?」
「うちの親、娘のことほったらかしにしてる代わりに、お金だけは不自由させないつもりらしくてね」
「いや、そういう問題じゃないっていうか、うち兄貴がほんとうるさいから・・・」
「わたしが行って、娘さんは責任をもって無事にお帰ししますからって頭さげるよ」
「や、ほんとちょっと待って・・・」
 そうして押し問答をしているうちにお姉さんが戻ってきて、藍は大真面目な顔をしてわたしを
制すと、プランについてのやり取りを始めてしまった。心の準備もなにもないまま始まってしまった
ことだけに、頭のなかにはとまどいだけがとぐろ巻いているようにおもわれていたのだけれど、
鈍色の空から一条の光が差し込むように、どこかワクワクした気持ちもある。ほんとうに、いいの
だろうか・・・兄や母を、ちゃんと説得できるだろうか・・・そもそも北海道旅行なんて、けっこうな
お金がかかるだろうに、彼女に甘えてしまっていいのだろうか・・・もし本当に行くことになったら、
バイトとかしなきゃいけないんじゃないか・・・。
 そんなことを考えているうちに、話がまとまったようだった。
「候補日をいくつかあげてもらったから、蕗香の都合のいい日を選んで。決まったら、一緒にお兄さんと
お母さんを説得しにいくから」
「ちょっと藍、きょうなんか強引すぎ」
「そのうちなんていってたら、わたしたちあっという間に歳をとっちゃうんだよ。15才の夏休みは、
これっきりしかないんだから。また何万年も待たなきゃなんないなんて、もういやだし」
 その瞬間、わたしの身体が凍りついた。またイタい子キャラが顔を出したとかそういうのはぜんぜん
どうでもよくて、少なくとも彼女にとっては、ずっと待ち焦がれてきたことなのだ。超古代都市が
滅び去ってから、わたしとの邂逅を一日千秋のおもいで待っていたのだ。藍が、いつごろからそんな
考えに取りつかれたのかはわからない。けれど、それからはずっとわたしと出逢うことだけを考えて
生きてきたのだ。そしてそれは、わたしにとっても同じだった。
「・・・わかった。どうにか説得してみる。でも、やっぱり費用を甘えるわけにはいかないから。
バイトして、自分のぶんは自分で出すよ」
「ほんとそれは気にしないで。これはわたしのわがままなんだから」
「いや、そういうわけにはいかないでしょ。だいじょうぶ、近所に共働きの家が多くてさ、たまに
ベビーシッターを頼まれて、ちょこちょこお小遣いはもらってたんだ。うちのお母さん介護士だから、
娘のわたしにもそういうスキルがあると思い込まれてるみたいなんだよね」
 また、ふたりで笑った。ずっとこんな時間が続けばいいのに。そう強く願わずにはいられなかった。
ありきたりかもしれないけれど、それだけに切実な願い。祈りの言葉というのは、きっとこういう
おもいから口をついて出てくるのだろう。さっそくジェーン・マープルへ寄って、候補日のなかで
もっとも適当だとおもわれる日をふたりで検討した。
 旅行までの日々は、あわただしく過ぎていった。けっきょくわたしは費用全額を稼ぐことはできず、
とりあえず藍に建て替えてもらって、あとで返すことにした。藍は「ほんとにいいのに」とぶつぶつ
言っていたが、けじめはきちんとつけなきゃいけない。うちの両親も、いろいろと理由はあったの
だろうけれど、けっきょくはお金のことで揉めて別れたと聞いている。駅にあらわれた藍は、胸元に
大きな黒いリボンのついた植物柄パターンのタンクトップに、くるぶしまで折り返したジーンズと
白いパンプスをあわせている。華やかな顔だちと栗色のウェーヴヘアが映え、とてもおとなびて
見える。一方わたしはといえば、ありきたりなTシャツにショートパンツ。なんだかとても自分が
みすぼらしくおもえて、気後れしてしまう。そんなわたしの気持ちを察してくれたのか、藍は
「じゃ、行こうか」とわたしの腕をとった。
 札幌に着いてからお約束の市内観光をして、ホテルへチェックインしたのは、夜の9時をすこし
まわったところだった。ひとしきりおしゃべりをして笑いあったあと、交代でお風呂にはいった。
わたしが出てくると、藍がテーブルにお酒のボトルをならべていた。
「えっ?いや、さすがにそれはまずいでしょ」
 いい子ちゃんだとおもわれたくはなかったけれど、親の目の届かないところにきているからと
いって、羽目を外すのがはばかられた。なんだか影でこそこそしているみたいで、潔くない。
藍ならわかってくれるはずだ。だから、正直にそう伝えた。藍はしばらく逡巡していたようだけれど、
やがてわかった、と言ってくれた。わたしはありがとう、と彼女の腕を撫でた。そのとき、いきなり
藍がボトルを手にとり、口をつけてそのまま一息に飲み干そうとする。ピンク色をした小振りな
ボトルで、アルコールはそんなにきつくないのだろうけれど、それでも一気飲みはないだろう。
「ちょっと、藍、あんたなにしてんの!?」
 思わず声を荒げてしまった。それに弾かれたように、藍がぽろぽろ涙をこぼし始めたのに二重で
びっくりする。
「やだ、そんなつもりじゃ・・・大きい声だしてごめん」
「ちがうんだよ」
 消え入りそうな藍の声。ちがう?なにが?わたしの怒声のせいじゃないってこと?疑問符があたまの
周りを飛び回る。
「ちがうんだよ、蕗香。わたし、あんたにどうしても言いたいことがあって・・・でも、しらふじゃ
とても言えそうになくて」
 なに?なんなの?疑問符がだんだん湿り気を帯び、ぶよぶよしたへんな生き物みたいになる。
それが身体中にまとわりつくようで、とてもきもちわるい。あれほど衝撃的な口説き文句をすらすらと
口にした藍が―ひょっとするとこっそりリハーサルしていたのかもしれないけど―しらふじゃとても
言えないことって、いったいどんなこと?思考を目まぐるしく働かせてみるけれど、焦れば焦るほど
「なに?」とか「なんで?」の周りを堂々回りしてしまって、とりあえずいまどうすべきなのか、
ちっとも妙案が浮んでこない。
 が、やがて意を決したように、藍がわたしへ向き直った。
「じゃあ、落ち着いて聞いてくれる?聞いてもわたしのこと嫌わないって約束してくれる?」
 反射的にそんなの聞いてみなきゃわからないよって言いそうになったけれど、いまはそういうとき
じゃないと本能的に悟った。わたしにとって、藍の存在がいかなるものかを試されようとしている。
藍がくれたものの大きさを思い出せ。わたしは、逃げない。なにを言われようと、それと向き合い、
自分なりに最善の策を見い出していかなければ。
「うん。なにを言われても藍のこと嫌ったりしないよ」
 藍は斜め下を向き、呼吸を整えてから話しだした。
「わたし、蕗香のこと好きなんだ。友だちとかそんなんじゃなくて、恋愛対象として」
 頭が真っ白になった。まったく予想だにしていなかった展開に、思考回路がショートしてしまった
みたい。
「でも、つきあってくれとか、そういうつもりはないよ。ただこれからも友だちとして、いままでと
変わらずに接してくれればそれでいいし。・・・なんかこういうシチュエーションだし、身構えられたり
したらちょっとヤだなーとかおもってたり」
 心の奥底から、微かにふつふつと湧きあがるなにかをかんじていた。いちど親友になってしまった
相手にこんなことを告白するのに、どれほどの勇気がいっただろう。そしてわたしは、いままでに
どれだけ藍の愛情をむさぼってきただろう。わたしの藍にたいする気持ちが、友愛なのか恋愛なのか、
それはわからない。でもそれはたしかに愛情なのであり、愛に尊卑などないはずだ。いや、そんなことは
どうだっていい。わたしは藍をどうおもっているのか。どう、どうおもっているのか・・・。気付いた
ときには、わたしは藍をきつく抱きしめていた。いま彼女をとても愛しい、いじらしいとおもっている
わたしの気持ちに偽りはない。雰囲気に流されているだけ?そうじゃないくらい、わたしにだって
わかる。身体を離す。呆然とした藍の両目から、大粒の涙が零れおちる。
「うそ・・・」
「うそじゃないよ」
「でも・・・」
「女の子がわたしの恋愛対象になるのかどうかなんて、いまはわからないけど。そんな言い方、
すごくずるいって自分でもおもうけど・・・いまわたしは、藍を抱きしめたいとおもった。キス
したいとおもった。その気持ちは、ほんとうだから」
 どちらからともなく、キスをした。このうえなく幸せだ。幸福感が、脊髄をはしりまわっている
ようなかんじ。ふたりを隔てていたものがすべて取り払われ、いいしれない一体感に包まれていくのが
わかる。藍の体温を、藍の柔らかさを、藍の微かな震えを、藍の匂いを、全身でかんじる。さきのこと
なんて誰にもわからないけど、これでよかったんだという確信があった。根拠なんて、ない。
「ありがとう・・・」
涙でぐしゃぐしゃになった顔に微笑みを浮かべ、藍が囁くようにいった。
「幸せに、なろうね」
「うん」
「これからも、よろしくね」
「うん」
「たいせつにする」
「うん」
 やがて高校を卒業してしばらく経ち、わたしたちはつまらない喧嘩がもとで別れてしまった。
それはいまだからつまらないと言えるのであって、その当時のわたしたちにとっては、お互いに
譲ることができない問題だったのだろう。彼女との想い出は、胸に刺さったちいさな棘のように、
甘やかでいて幽かな痛みを呼び覚ます。それが呼び水となり、数万年の時間を隔てた超古代都市までが、
鮮明に目前へ迫るほどに。


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